happypig~障害夫婦生活雑記~

障害者夫婦なんて、世の中にそうある組み合わせで脊髄損傷車椅子旦那の夫と突き抜けすぎてる妻、そこにぽっこり産まれてきたこどもの生活を描ていきたいと思います ☆

これから障害を持つ人にとって不幸なこと

長文ですので気が向いた方のみどうぞ(;^ω^)

 

 

島国日本には、日本民族とごくごく少数のほかの民族しかいません。

昔からどこを見ても似たような顔と

似たような考え方をする民族の中で安心して生きてきたのが日本人なのでしょう。

 

21世紀になってもうすぐ20年が経とうとしているのに

日本人はいまだにその安心から抜け出すのを恐れています。

 

街で外国人を見て、

どうしよう・・・とドキドキしてしまうことはありませんか?

 

日本に外国人が来るようになって

もう何年経っているのでしょうね?

 

すくなくとも黒船が日本にやってきてから

160年以上の年月が流れています。

 

その時間を以てしても、

いまだに街で外国人を見かけることは珍しいことで

外国人と交流するのは緊張するという人も

まだまだ多いのではないでしょうか。

 

私もその一人です。

 

 

では外国人を障害者に置き換えて考えてみましょう。

 

不具のものというのは、当然太古の昔から存在しました。

障害というものは必ず発生するものです。

それは先天・後天問わず、いつの時代も同じことです。

(時代によって戦争や医学の進歩等によりもちろん後天的な障害者の発生数は変動します)

 

けれどみんなと同じでないと安心できない民族は、

その不具のものの扱いがわかりません。

 

自分たちと同じようにできないそれらの人々を

どう捉えればよいのかがわからなかったのです。

 

何千年何万年の日本の歴史を以てしても、

障害者を一般的に捉えることがまだできる環境ではありません。

 

 

時には神と崇めてみたり

時には悪魔の遣いだ!狐憑きだ!と迫害し、監禁したり虐殺したり、

因果が報いたせいだ!と蔑んでみたり、

障害を珍しく奇妙なものと捉え、見世物小屋が流行った時代もありました。

 

 

今の時代はどうでしょう?

今の時代もその名残がまだまだ蔓延り、

「おいおい、来年東京パラリンピックなのに

 日本のバリアフリーも日本人の障害者に対する態度もこれでいいの?」

と嘆きの声を耳にしますよね。

 

そんな中にあってもまだ

障害者は税金泥棒だ!迷惑だから街に出るな!邪魔だ!

介助者もなしに出かけるな!子どもを産むな!

という声を耳にしますし、実際にそういうめに遭うこともあります。

 

 

多くの人の考え方が変化するというのは

根強く残った根底を覆さない限り難しいことなのです。

身をもってその意識の改変の必要性を感じなくては、結局いつまで経っても変わりません。

この何万年・何千年と変わらずに迷走してきたのですから。

 

 

では、このまま日本人の障害者に対する考え方に変革がないとなると

一番困るのは誰でしょう?

不幸なのは誰でしょう?

 

障害者自身でしょうか?

 

いいえ、それはきっとこれから障害や疾病を持つ可能性のあるすべての人です。

そこには、今既に障害や疾病をもっている人さえも含みます。

だって、今持っているのとは別の障害や疾病を

これからあなたが持たないとは、言い切れないでしょう?

 

昔私が実習でお世話になった療護施設に、

ALS(筋萎縮性側索硬化症)の年配女性が居ました。

彼女の記録を見てみようと台帳を広げると、

彼女の障害名には古い字で『脳性まひ』と書かれ

新しく『ALS』が書き加えてあったのです。

 

私はそれに驚きましたが、そんなことは当たり前に起こることなのです。

 

「神様は1つ試練を与えたらもう別の試練は与えない」

なんてことは残念ながらありません。

1度事故で脊髄損傷した人が2度も3度もまた事故で脊髄を損傷したという事例が海外にありました。

そんなことも起こりうるのです。

 

 

話は逸れましたが

だから、結局は"すべての人にとって"不幸なことになるわけです。

 

 

 

ではなぜ、障害や疾病を身近に感じれない・一般的に捉えることができないことが不幸なことなのかというと

 

 

一つは、自分自身がこれから先、そうなったときに

障害や疾病を抱えた時に、

"将来の展望が見えない" "どうしたらいいのかどうなっていくのか"の見通しが立てれず

不安に陥り、絶望から立ち直れず、多くの時間を無駄に過ごすことになるでしょう。

 

 

一昔前の中途障害者はそうでした。

情報も簡単に得られないような時代でしたし、今のように便利な道具も車椅子トイレもなく、外出すら一人ではできず

似たような境遇の人と繋がることさえ困難で

多くの時間を絶望に費やすしかない時代もありました。

 

最近の中途障害者をみて感じることは

一昔前の中途障害者に比べ、以前の生活に戻る期間が早い。

絶望に費やす時間が短いように感じます。

 

情報が早く手に入ることや、多くの人と繋がれること

それに自分から情報を発信していけるようになったこと

ひとりで外出できる手段が増えたことも一つでしょう。

 

 

もう一つは障害者としてどう生きればいいのかに悩んでしまうことです。

障害を持つとなぜか人は”障害者らしく障害者役割を生きよう”としてしまうところがあります。

 

あなたはあなたなんだから、あなたらしくあなたの持つ役割

例えば父親、母親、息子、娘、夫や妻、社長だったり経営者かもしれないし

学生かもしれません。

そういうこれまでの役割を生きればいいのに、

それをすべて失った気になり、その役割は免除され新たに

『期待された通りの障害者像を生きなくてはならない』と思い込んでしまうことです。

それはまた他人からもそうあることを求められます。

 

でもそれって、喪失感しかなく

ありのままの自分を生きれなくて苦しくない?

 

 

障害者だからキラキラ生きなければならない。

障害者だから強く生きなくてはならない。

障害者だから他人に勇気を与えなくてはならない。

 

そういったものを障害や疾病を負うと期待され、それを演じようと必死になるけれど

そうしたものに囚われるのは時間の無駄です。

 

 

 

もし身近に障害者が居て、普通に暮らしていて

実はみんなと変わらない存在なのだということを知っていたらどうでしょう?

もし障害者がそんな輝いている必要はなくて、

ただの普通の人の生活を別の方法で営んでるだけの人たちだということを

初めから知っていたらどうでしょう?

 

生活するためにどんな道具があってどんな方法があってどんな制度があって

自分がどうすれば生活をしていけるのかをはじめから知っていれば

落胆する時間も、それを調べる時間も、無駄に障害者役割を負おうとしてしんどくなるだけのために費やす労力も

無駄にしなくて済むのです。

 

 

もちろん知っていれば全く落ち込まないかというと

それは無理な話でしょう。

中途障害の場合は特に、あったものを失うという喪失体験をするのですから。

ですが、知っているか知らないかで人生は大きく変わるでしょう。

 

 

残念なことに、

人間は死亡率100%という生き物です。

人間の体は日々新しく細胞を作り、そして毎日古い細胞は死んでいきます。

その過程で起こったエラーも蓄積されていき、病を発症しやすくもなります。

 

人間のからだの耐久は115年程度と言われています。

 

 

必ずいつかは体は壊れ、使い物にならなくなるのです。

実際に65歳を過ぎると徐々に体はあちこちが壊れ、これまでの生活が送れなくなっていきます。

多くの人は死ぬまでに、障害疾病を持ちうるのです。

それは高齢になってからかもしれないし、若いうちかもしれません。

 

 

65歳で障害を得て、もう高齢だからと人生を諦めますか?

まだ30年は生きるかもしれないのに、絶望した30年を送ることは幸せですか?

 

 

障害や疾病は特別なことではありません。

ごくごく当たり前の、誰にでも起こりえることなのです。

 

それらを身近に受け入れることができていない社会、

障害者や病者を包括できない社会を作るということは、

これから障害や疾病を持つことになる人達すべてにとって、とても不幸なことだと

私は思います。