happypig~障害夫婦生活雑記~

障害者夫婦なんて、世の中にそうある組み合わせで脊髄損傷車椅子旦那の夫と突き抜けすぎてる妻、そこにぽっこり産まれてきたこどもの生活を描ていきたいと思います ☆

車椅子パパの葛藤

車椅子パパにはできないことがたくさんあります。

 

自分が子どもの頃に父にしてもらった色んなことが難しいのです。

 

 

肩車、

高い高い、

車で寝てしまった子を寝室まで抱き抱えて運ぶこと、

高い場所のセミをとってやったり

一緒に山や河辺の茂みを周りクワガタやカブトムシを採ること、

川遊びをや磯遊びを教えてやること、

自転車の漕ぎかたを教えてやること、

運動の仕方を教えてやること、

他にもたくさん。

 

そんなひとつひとつの悔しい思いの中から

父親としての葛藤も生まれてくるようです。

 

 

旦那が直接言うわけではありませんが

端から見ていて、葛藤してるなと

感じる場面がこれまでいくつもありました。

 

 

例えばこんなことがありました。

 

保育園の運動会に

父親参加の綱引きがあります。

もちろん任意参加のため、必ずパパが出なければならないわけではありません。

先生からの声かけを自ら断るパパさんももちろんおられます。

出ないからといって、誰も気にはしません。

 

ですが旦那は、出れないことを後ろめたく思ったようでした。

もしも歩けたら、彼は出たでしょうか?

性格からして、出なかったんじゃないかな?と私は思うんですが

「俺も出てぶら下がって引きずられた方がいい?」

面白くもない自虐ネタを勝手にひとりで呟き、

父親競技を眺めていました。

 

旦那は、出れないことが淋しかったのでしょうか。

 

 

 

またこんなこともありました。

 

うちに頻繁に出入りしている旦那の友人が一人居て、

くうたも赤ちゃんの時からたまにうちに泊まったり

一緒に出掛けたりするその友人が大好きです。

高い高いもしてもらえるし、だっこだってしてもらえます。

 

先日もバーベキュー後に急遽泊まりになり、

喜んだくうたは「おじちゃんおじちゃん」と

友人にベッタリでした。

 

ところがそれが気に入らない旦那は

アイツの方がいいんだな。何でもできるもんな。

 

確かにくうたを高い高いしてくれる数少ない友人ですから、くうたは大好きです。

けれど、

父親と高い高いしてくれるおじちゃんとを

くうたは天秤に掛けたりはしていません。

 

おじちゃんは大好きです。

でもそれは、おじちゃんの方がパパよりいいとか

おじちゃんがパパだったら良かった!

とは違うのです。

 

旦那は勝手にくうたの“おじちゃん大好き”を勘違いし、嫉妬し

父親としての適性という天秤に自分と友人を掛け、苛立っていました。

 

 

旦那はたぶん自信がないのです。

自分が父親にしてもらったことが

何一つできてないんじゃないかと。

 

そうやってくうたの“おじちゃん大好き”の気持ちを受け止めてやれず、

まるでそれが悪いことのように接してしまうから、

くうたもどうしたらよいかわからなくなるのですが、

そうして生まれていく溝を

「自分に懐かないのは何もしてやれない自分が父親であることが嫌なのでは」

とか

「くうたは俺に対してひどい態度だ」

とか言うのです。

 

 

相手は4歳なりたての子どもなのですから

くうたに「俺を父親として認めてくれ」と求めても

まだくうたはくうたで自分を丸のまま親から認めてほしい年頃ですし

何よりパパのことは心から大好きなのです。

 

 

パパに自信がないばかりに

お互いが溝を作り、どんどんそれが広がっていくのです。

 

くうたにはパパが必要ですし

くうたはパパが大好きなのですが

パパのそういった態度から

くうたはくうたでパパの愛情に不安を感じてるし

パパはパパでくうたの愛情に不安を感じています。

 

 

これは私がいくら間に入っても

説明しても、

変わりません…。

 

 

旦那が私の話に聞く耳を持とうが持つまいが、

これだけは言えます。

 

 

子どもは自分を愛してくれる人が好きです。

自分を愛してさえくれれば

どれだけ欠けていても、まるごと大好きなのです。

少なくとも、くうたはそうなのです。

 

 

私を見ればわかるでしょう?

 

私は母親としてしてやれないこともたくさんあるし

体調的に構ってやれない時も、

失敗をしてしまうこともあります。

もちろん、無駄に苛々して叱りつけてしまうことも

他の親より多いと思いますし

不妊治療にばかり行き、さみしい思いもさせています。

ですがそれでもくうたは不思議と

「ママ大好き」なのです。

 

 

私をですよ?

こんな私を大好きなんて言う人、

これまで誰もいなかったのに。

実の親にすら要らない子だと幾度となく言われてきたというのに。

 

いとも容易く

まるっと受け入れてくれたくうたを

私もまるっと愛せるよう、努力をしています。

 

発達障害は目で見てさわれるもの以外は感じ取りにくい側面があります。

ですから私は、愛情と言うのがよくわかりませんでした。

 

彼氏ができるたび愛情をはかるために揺さぶりましたし

愛情の物差しはプレゼントの金額でした。

 

だから私もくうたに愛情は目で見てわかるように示すことしかできません。

 

・「かわいい」「大好き」は思った時すぐ伝える

・だっこしたいと思ったらその場で抱き締める

・自分が間違っていたときは謝る

・自分の状況を説明する

 「ママ今苛々してるからすぐ怒るけどくうたのせいじゃないから気にしないで」など

・くうたが好きなものが売ってたらサプライズプレゼント←これは教育上良くないか(;´∀`)

 

 

私にも葛藤はあります。

母親としてしてやりたいけどうまくいかないことが

一目で分かる障害のパパとは違い、

目に見えない、言葉で説明しにくい、自分でもよくわからないことがたくさんあります。

 

 

けど、私がいちいちそれに気をとられて足踏みしていたら

きっと新生児だったくうたは死んでしまっていたと思います。

 

子どもが生まれたらまず母親は

このか弱い生き物をいかに死なせないか!

というミッションに追われ、

その中で必然に迫られて成長せざるを得ないのですが

父親にはそれがありません。

 

父親としての実感というのは、

赤ちゃんが生まれ、実際に赤ちゃんとの生活が始まっても

なかなかわかないものだと聞いたことがあります。

 

 

 

障害者が親になると言うことは

障害の程度によりますが

多かれ少なかれ、自分の思い描く育児と現実にできることとの間に

解離が生じます

 

 

それを受け入れて、やれることをやる!

というのは、

常に全力を尽くさなければ

子どもの命を守れないから必然を迫られている母親とは違い、

父親にとっては難しい物なのかもしれません。

 

 

それでもあなたが父親としての理想の自分像を捨てて

今のままの俺でオッケーなんだ!と気づく頃には

もう子どもは成人してしまっているかもしれないし

子どもの成長は2度と巻き戻りません。

取り返しがつかなくなって気づいたのでは遅すぎるのです。

 

 

そして、1人で悩んでるつもりでも

残念ながら妻は気づいています。

時には妻の助言を聞き入れる耳も必要です。

 

 

既成のやり方である必要はなくて

あなたのやれるやり方で愛してあげれば

それだけできっと子どもは満たされるのに

あなたの「他の父親のように」という固定観念

子どもを淋しくさせていることに、早く気づけるといいのだけれどな。

 

 

「大切な人を守るにはまず自分を大切にしなきゃいけない」

って教えてくれたのは誰だった?

まず自分を惨めに思うの、辞めなよ。

 

 

中途障害者の気持ちは私にはわからないと言われてしまえばそれまでです。


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だけどこれだけは言える。

パパがどう思おうと、

今のくうたはパパが大好きです。